yot need chopsticks??


東野圭吾


人魚の眠る部屋


を読んだのよ。

 

 

ざっくりいうと臓器提供の話なんだけども。

 

前に私は免許証の裏の

意思表示カードをみたのだけど

サインはしなかった。

 


というか、迷った挙句

怖いというか現実味がなくて

サインしたら自分の死を認めるようで

出来なかったのよ。

 

 

いつかは

死ぬのだけども。

 

 

うーん、けれど読んだあとも

あまり意識は変わらなかったな。

 

 


自分がばらばらに

なると思うと怖い気もするしな。

 

 

 

日本は海外に比べて移植が遅れてるらしい。

それは脳死=回復不能=死を選択するのが

遺族側にあるかららしい。

 

 

 

もし私や親族が移植を望んでる立場で

近くの人間が提供できる立場にいたら

どう思うんだろう。

 

 

その逆の場合どう思うんだろう。

 

 

飢餓状態の動物みたいな

気持ちになるんかなあ。

 

 

誰かのために

提供しようと思えるんかなあ。

 

 


最近、相手や自分に期待しないようにしてて

他人すぎる存在に無関心なんだよう。

 

 

 

だから、もし今 親族や私が

移植を望む立場にいても

 

 

あ、そうなんだ (親族 もしくは 私は)

助からないのね。

 

 

ぐらいな感情しか沸かないんだろうなと思う。

 

 


私自身は、

 


延命は望まないだろうな。

それなら死ぬまでに

お金をいっぱい使いたいな。

楽しいことしたいな。

 


そう思うってことは

臓器提供していいと思ってるってことなのか。

 


以上。

読書感想文でした。

 

 

それから、

 

 

わたくし、本当に適当人間だなと

思うんだなあ。

 

 

適当。

うわべ。

なんとなく。

めんどくさがり。

 

 

の塊ですわ。

 

 


なんでみんなそんなに必死になれるんかな。

 

 

 

私が家を出れるような

状況じゃないから自分のせいなんだけど

家から出よう、いつかいつか。

 

 

インターネットの記事を読んだけど、

家族といえど価値感が違う他人なんだから

合わないこともあって当然。

そう考えていらいらしないでおきたい。

 

3年間は耐える

たぶん何かしら、

良かったと思えるように

なるんだろうね

よく言うけど

良かったと思えるように

しないといけないんだろうね。

 

 

 

どすこいわい。